現実社会との乖離
青年を過ぎて尚、この曲の青年に自分を重ねている。
どれだけ、社会経験を積んでも、きっと俺自身の心中に押し込めている感情と社会が求めている価値観の差というものが埋まることは無いのだろうと思う。
言わずもがな、社会的に生きることは当然、自分自身を社会利益のために費やすという意味であって、これに未だに俺の自我が反発して止まないのだ。
なぜ社会貢献しなければならないのか、他人は言うだろう「治安も経済も個々人の労力を社会に還元しているからこそ成り立っているのだ。」と。
だが、そういった言説がいかに正しく、俺を慰めようとも、俺は俺個人のために生きたいし、俺を慕ってくれる人たちのために俺自身を費やしたいのだ。
「社会のために生きる」と「自分のために生きる」という二律背反について、いつまでも納得のいく答えを出せずにいる。
しかし、憎らしく思えど、社会との繋がりに時に救われる自分がいるのも事実だ。
成熟した社会と、不完全な個人である自分との対比が歌われているかのようで、この曲に引き込まれていく自分がいる。
まるで、陽炎に水を求めるように。
青春と孤独
青春を美化も称賛もせず、ただ目の前にそびえた時間として捉えたとき、それは決して楽観的なものではないだろう。
思うに、我々が普段なにげなく「青春」と口にするとき、そこには若者へのとめどない将来への期待や、あるいはそんな輝ける空想が含まれているに違いない。
だが、実際の青春とは、その渦中にある当事者にとっては、きっと孤独で音のない現実が広がっているだけではなかろうか。
一見完成されたように見える世界。
否が応にもそこに我が身を放り出していかなければならない自分は、果たしてそんな世界にとって価値のある人間なのだろうか。
「青春の輝き」などという言葉はそんな、御しがたい苦悩を傍から賛美で表現した皮肉にさえ聞こえた。
将来の可能性とは、そのまま人生の不安定さとも言い換えられる。
地に足が付き、自分で人生の航路を決められるようになるまでの時間は、近いようで遠く、しかし、自分では今、目の前に迫った世界への不安を拭うことはできない。
できるのは、ただ懊悩することと、自らの信じるものに没頭することである。
「十四時過ぎのカゲロウ」
この曲が表現する青春の不安定さ、情緒の複雑さ、そして歌詞の秀逸さには何度聞いても思わず感嘆してしまう。
きっと誰しもが一度は、自分と社会との違和感に孤独や不安を感じたことがあるはずだろう。
なんとか自分を社会に押し込めて、平気な顔をしている。
しかし、今だって、本当に自分がこれから先も社会でやっていけるかどうかなど確証はない。
「カゲロウ」という題材は、揺らぐ将来を「陽炎」に、水泳に居場所を求める青年を「蜉蝣」に喩え、 見事にそれ自身の性質と曲をシナジーさせている。
「十四時過ぎ」というのも素晴らしい。
午前でも正午でもない時間、この頃には一日の方針は決まって然るべきだし、この時期を逃せば、日は傾き始めてしまう。
人生の斜陽を決める、夏の最も暑い時間である。
総じて、この曲を聴くとき、人は人生の岐路に立たされた在りし日の自分や、今も尚、迷い続けている自分と重ね合わせずにいられないのだろうと思う。
水に寄り添い羽化を待つ蜉蝣に自分自身を重ねた。