ただより高いものはない。という。
 確かに、ただで手に入れる事のできるものの見返りはその実、大きな負債として自分に降ってくるものだろう。

 一方で、我々は普段意識しないだけで無償で大きく恩恵に預かっているものもあるのだ。
 例えば、公道。
 平らに均され車両や歩行者の往来に何の憂いもない道は、現代では当然の権利として社会に享受されている。
 治安や公共設備に関するものだってその類だ。

 もちろん、それを手放しにただで享受していると言えば、少々乱暴な言説になるだろう。
 公道にせよ、その他の社会インフラには相応の時間と税と労力がかかっていることは承知の上だ。

 しかしながら、それらを有償で利用していると認識する機会が、我々の忙しない現代でどれだけあるというのか。

 はっきり言って、俺はこれらのものに普段何の感慨も湧かないでいることは現代人の怠慢だと思う。
 これだけの生きるのに十分な設備が揃ってなお、それに見向きもせずに不満ばかり垂れ流してしまうのはその実、現状に対する誤謬ではなかろうか。

 要は俺が指摘したいのは現代人の贅沢病である。
 本来、人間など生まれてから天寿を全うすることにのみ腐心すべきものなのに、社会が発達するにつれて我々はより良い生活のための心配などをするようになってしまったのだ。

 より良い生活など、生命の付属品でしか無いはずだ。
 「生きる」という命の最小単位に焦点を合わせれば、今の日本社会に誰も文句は言えないはずである。
 連綿と続く人類の歴史に比を見ない高度な社会保障や医療に囲まれて、飢えの心配の無い社会は正しい認識で見れば良い意味で異常だ。

 言うなれば、今の日本社会は命をただで買えているといっても過言でないだろう。
 時折、災害や事件のイレギュラーは起こるにせよ、概ね生命にとって完成した社会といって差し支えない。

 しかし、人間は盤石に固められた足元のありがたさに気づかず、さらなる生活の改良を求めてしまうのだ。
 全くもって愚かではないか。

 もちろん、技術の発展が国家においては対外的な国防等について欠かせないものだから、それを否定するつもりは毛頭ない。
 俺が言いたいのは、特段大きく何かを生み出すことのできない個人が、生活の基盤の恩恵を享受しているのに関わらず、生活の贅を求めようとする浅ましさについて、考え直したほうが良いだろうという一種の提案である。

 実は人間は大きく求めずとも、小さく生きて満たされるもののはずだ。
 大きな欲求は期待となり、それが裏切られ満たされなかったときに反発となって自分を苦しめる。
 欲求は人間の性であり、生きる目的とも言えるが、軛では無いのだから、それに自ら繋がれようというのは間違いだろう。

 自分の身の程を知って、現状の満足を見つけることこそが、現代人の幸福の一路ではないか。

投稿者

一二三四五六(ひふみじごろ)

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