暑気が息をひそめ始め、夕暮れも早い時間に山並みの稜線にかかり始める季節を迎えた。
朝方になれば玄関先で涼しげな空気に頬を叩かれる。
ふと、自分が流れていく日常の中で、川底の朽木のように取り残されているような感覚に囚われた。
生活とは、退屈なものである。
懸命に仕事をすること、食事をすること、寝ることも本来の価値は人が生きるに必要不可欠な営みであって、尊い価値を持っている。
しかし、生活の枠組みに仕舞われて、繰り返されている内に、どうも味気なく怠惰な物事に思えてきてしまうのだ。
そのうち、生活というものは何の刺激ももたらさない、一種の空虚な現代病といった様相をして、懸命に生きているはずの人間の心を蝕んでしまう。
人生で経験しているはずの幸福や充実感といった、人が人足り得る証明のような体験を、すっかりと現実という茫漠とした不安に呑み込んで忘れさせる。
そして、ふと、我々は過去の輝かしい思い出に浸るとき、この現代病に囚われている現在と過去の差の分だけ、不甲斐なさや情けなさを覚えて落胆するのだ。
時に自分はなんと贅沢なのだろうと自問することもある。
飢えることもなく、雨風もしのげて安心な生活を送ることに、本当は何の不満も漏らすべきでないのではないかと考えることもある。
だがしかし、生活は足枷のようにまた日常を押し付け、変わらぬ顔をして、俺の前に立ちはだかり、その憮然とした佇まいに俺は何も言えなくなってしまう。
けれど、生活とは円をなぞるように見えて、その実、螺旋を描いているのも確かであろう。
呼吸は肺を稼働させ、心臓は脈打ち鼓動している、真に留まって繰り返されているものなど何一つ無い。
少しずつ、全ての物事は終わりに近づき、また始まることもある。
当然に、いずれ俺の人生も終わる。
終わらなければならないし、俺の抱えている不安も全てが無に帰すと考えれば楽観的になれるというものだ。
何もかもが無駄になるなら、それは人生において何をしても良いということでもある。
連綿と続いた人類の歴史も、いつか灰が風にさらわれるように消えてなくなる。
ただただ、自分の幸福を追求することの利己を誰が否定できるだろうか。
しかし、こうして思案せれど、やはり俺は未だに生活に囚われている。
変わらず人の波に埋もれている。
拘泥する人生の澱の中で、自由に赴きたがる心の葛藤に秋の空気が吸い込まれた。